交通の要衝に立って往時の人の行き交いに思いをめぐらす

馬立本陣

旧土佐街道、馬立川沿いの要衝の地に残る土佐藩の本陣跡です。昭和55年、村指定史跡。霧の森のすぐ横です。

江戸時代・享保3(1718)年、土佐藩主山内豊隆侯が参勤交代の折に当地の庄屋石川氏の屋敷を本陣と定め、その後146年もの長い間続いた殿様の宿所です。往時は石垣の上に1.8mの銃眼を構えた土塀で囲まれていたというものものしさ、そして駕籠が50丁も並ぶほどの広大な庭があったようです。
残念ながら御殿は明治30(1897)年の火災で焼失してしまいましたが、川之江の円徳寺に移築されていた正門はこの難を逃れ、のち昭和58(1983)年に旧地に戻ってきました。

旧土佐街道からは、現在の霧の森第一駐車場付近より馬立川に下り、太鼓橋を渡って本陣入りしたようです。本陣の主人は羽織袴の正装で組頭を従え、太鼓橋上で出迎える慣わしだったとか。
こちらの太鼓橋も度重なる水害で半ば壊れかかったまま架かっていたそうですが、ついに明治10(1877)年の風水害で流され、その後架けられることはありませんでした。しかし、今でも太鼓橋の柱穴跡や番人小屋の石垣がひっそりと残っており、往時の面影を今に伝えています。
この地には、太鼓橋のあと、簡単な板橋が架けられ、さらに霧の森の開園にあわせて大規模な斜張橋「玉水橋」も架橋、まさに交通の要衝を象徴するかのように歴代の橋がそれぞれに存在感を放っています。

[霧の森からのアクセス]横すぐ